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礼拝メッセージ(2016.1.10)

「光なる主イエス・キリスト」
聖書箇所:ヨハネ8章12-59節

このヨハネの8章では、二つの物の対比が語られています。光に属する者と闇に属する者です。

マルチン・ルターの書いた「神は我がやぐら」という有名な賛美歌があります。

 “神は我がやぐら 我が強き盾 苦しめる時の 近き助けぞ 己が力 己が知恵を 頼みとせず 黄泉の長も など恐るべき“

この、「黄泉の長」とは悪魔のことです。悪魔は闇に属し、自分の知恵、力で人生を歩ませ、滅びに至らせます。それにも勝る神の力があるので、恐れることはない、という意味です。
私は中学校がミッションスクールでしたので、この賛美を学校でよく歌わせられましたが、当時わからなかったその意味が、今になってやっとわかるようになりました。

12節で「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光をもつのです」とイエスさまは言われました。人はその人生において、光の中を歩むのか、それとも闇の中を歩むのか、どちらかの道に分かれていきます。
殺人や泥棒といった悪事は普通、闇の中で行われます。闇の支配者は悪魔です。一方、光の象徴は天地万物を創造された、神様です。この対比は聖書全般に見ることができます。

私達は自分の知恵と力に頼る時、幸せになることはできません。
一例として、人類は平和と平等を、知恵を尽くして追い求めて来たはずですが、未だに争いは絶えません。根底には「まず自分が幸せになりたい」という罪の思いがあるからです。
みんなの幸せ、を求めても、人が10人、50人、100と集まるなら、全ての人の意見をまとめて、だれもが幸いになるようにすることはできません。残念ながら必ず対立が生じてしまいます。けれども神様は、全ての人にとって幸いになる道をご存じです。それは、神様は全知全能であり、また、全く影のない光であり、人間の罪を赦すことのできる唯一のお方だからです。
この私達の罪こそが、滅びと不幸の元であると、聖書は語っています。
今日の箇所で、パリサイ人はイエス様と対立しました。
パリサイ人はいわゆる宗教家です。律法に従い、厳格に守り行い、それゆえに自分達は神に愛されている、と自負していました。既定に従って、一日に3度きちんと祈り、捧げ物をし、祭りを守る。汚れた物には触れない。死んでいく人には関わろうとはしませんでした。自分が汚れてしまうからです。人目には立派な彼らではありましたが、彼らは、自分達がどこから来たのか、また、将来どこへ行くのか、答えることができませんでした。もちろん、人としては母親から生まれますが、自分達の権威の根拠がどこから来ているのか、そして、死後どうなるのか。律法を守っていれば、天国にいけるだろう、とかすかな期待はあったことでしょうが、確信はありませんでした。
一方、イエスさまはご自分がどこから来て、どこへ行くのか、知っておられました。
父なる神様のみもとから来て、そこへ戻るのです。
パリサイ人達がこれを知らなかったのは、真の神様を信じていなかったからです。彼らは自分達の知恵と力に頼っていました。それが罪であり、高慢である、とイエスさまが指摘されたので、彼らはイエスさまを否定し、憎みました。

私達はイエス様を救い主として信じてはじめて、自分がどこから来て、どこへ行くのか、知ることができます。
神によって造られ、神様のみもと、天国へ行けるのです。

それを知らなかったパリサイ人達は、実は闇の中にいました。ですから、自分達の心の中の罪には気が付かなかったのです。
一方、神様は人の心の中を見ておられるお方です。
行い以上に、心の動機を知っておられ、へりくだった悔い改めの心を喜んで受け取ってくださいます。
15節に、「肉によって裁く」とありますが、この肉fleshは、人間的な基準、という意味です。表面の行いで人を裁くことです。

パリサイ人達の心には、自分達と同じ行いが出来ない人々を無知と見下し、馬鹿にする思いがありました。その思いをイエスさまは非常に嫌われました。神様は非常に憐れみ深い、愛のあるお方です。たとえ、人が貧しさのゆえに、なにも捧げることができなくても、神様を愛する真心を受け取って喜んでくださいます。

実は神様が求めておられるのは、自分を罪人と認め、心へりくだる人、神様の前に子供のように素直にひれ伏す人です。
パリサイ人はこれができませんでした。
神様は私達の悩みも苦しみも、思いの全てと、過去から将来に至るまでご存じで、私達に幸いを与えたいと願っておられます。
パリサイ人は特定のグループの人しか愛しませんでしたが、神様は全ての人を愛し、それぞれに最善を望んでおられます。
神様はまた、苦しむ者、弱い者への同情に溢れたお方です。罪を犯して悔い改めないままでは、人は滅びます。その滅びから救う為にイエスさまは十字架で自分の命をささげ、大きな犠牲を払ってくださいました。この愛深い神様を仰ぎましょう。




婦人集会メッセージ(2015.5.27)

主題 「キリストにある苦難と慰め」
聖書箇所:Ⅱコリント1:1-7

中心聖句 「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」 Ⅱコリント1:5


最近は、「心の癒し」という言葉が良く聞かれるようになりました。美しい花や動物に癒された、という表現は、私が覚えている限り、2、30年前には聞かれなかったように覚えています。これは世の中で、以前よりも私たちに困難が多く、困惑することが増えてきた、という事ではないでしょうか。

かつて日本においては、オイルショックの時代がありましたが、それを乗り越え、日本経済は豊かになり、バブル期を迎えました。バブルに至るまでは、人々は努力すれば願いが叶い易い時代でした。勤勉に働いた分収入が増え、欲しい物が手に入るようになりました。そして、物があふれかえる時代がやってきました。けれども、物はあるけれども、失うものが多い、個人の努力にかかわらず、思いが叶いにくい時代ともなりました。物が手に入れば入るほど、もっと欲しい、と思います。もっと幸せになりたい、と思います。けれども、努力しても、願いが叶わない、思う通りにならない。その、“もっと”が満たされないと、(ちょっとした)挫折感となり、癒しを求めます。また、バブル崩壊後は、実際に多くの人は多くの物を失いました。仕事、家、人間関係など。そして、現実として、どんなに努力しても思いが叶わない、または問題が解決できないことにより、傷つきます。

近年は、癒しの対象として、ペット、アロマなどいろいろな物がもてはやされています。アロマテラピーという言葉の中のテラピーとは心理学用語で、精神療法という意味です。私たちクリスチャンはこれらの癒しグッズは、神様が私たちの為に造ってくださったことを知っています。そして、聖書から、神様ご自身が私たちの心を慰め、癒してくださることを知っています。その慰めは問題の解決かもしれません。また、解決に至らなくても、神様ご自身が私たちと共にいてくださるという安心感と平安です。

実は、全ての人には苦難や何かしらの困難があります。私からすると大変贅沢な悩みですが、財産があればあるほど、それを失うことを恐れる人がいます。好きな人と結婚できても、いつまで続くだろうか、と悩む人もいます。世の中で自分の欲しかった地位が手に入ると、今度はそれを失うのではないか、と気にします。以前よりも失いやすい時代になったからです。結婚に関して言えば、結婚するまではバラ色ですが、実は良い家庭を築くには、お互いの努力が必要であることを既婚者は皆、知っています。その努力を重ねて良い家庭が築かれていきますが、最近では、今が良ければこの人と結婚しよう、だめなら、またもっといい人が現れるから、などと安易な結婚と離婚が繰り返されています。これは大変残念なことです。このような時代にあって、聖書の約束を信じ、神に信仰を置いている人は本当に幸いです。

どんな苦難の中にあっても、慰めの神様は必ずそばにおられ、必ず、慰めといやしが与えられるとの約束があるからです。クリスチャンにとって、苦難は神様の恵みを知る機会です。明日を思い煩うな、と明日を知っておられる主イエスさまがおっしゃっているので、私たちは、明日どうしよう、来月どうしよう、来年どうしよう、と先々の心配をする必要はありません。真の神様は、必ず私たちを慰め、励まし、導きを下さるお方です。この神様は全ての人に必要です。「主は必ず慰めてくださる」この聖書の約束をしっかり信じたいと思います。




礼拝メッセージ(2015.03.08)

主題「私たちは神の家」
聖書箇所:へブル書3:1-6

中心聖句 「しかし、キリストは御子として、神の家を忠実に治められるのです。もし、私たちが、確信と希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 へブル3章6節

へブル書は、名前の通りへブル人(ユダヤ人)に向けて書かれました。そして、この書の前半では、ユダヤ人が尊敬する人々を引き合いに出して、その人物と比べてイエス様がいかに偉大なお方であるかを語っています。
今日の箇所では、モーセとの比較です。

モーセは押しも押されもせぬ、偉大な指導者です。神様からの召命と導きを得て、エジプトで奴隷であったイスラエル人を率いて、エジプトを出て、神の約束の地(現在のイスラエル)へと導きました。
民の数は男性だけで100万人。女性と子供の数を入れたら200万人以上です。それぞれの家財と、家畜達も率いての大移動です。
私達が車数台で遊びに出かけたとします。たった数台だけでもまとまってスムーズに移動するのは大変なことです。また、学校の先生方は修学旅行で多くの子供達を導きます。それには大変な苦労を伴うことでしょう。
モーセは40年かけて、民を目的地へと導いたのです。

これは本当に偉大な業でした。荒野を旅する間、食べ物がない、に始まって、モーセのリーダーシップへの不満など、様々な問題が湧きあがってきました。
モーセは出来る限り、民の思いや考えを理解し、良い判断を下そうと心を砕いたことでしょう。
一人で全てをしようとした時に、そのままではモーセがつぶれてしまう、と義理の父のイテロが案じて、民の要求を裁くために優秀な者を選んで、彼らに任せるようにとの忠告をしました。

モーセは人として出来る最大の仕事をしました。けれども、これを成したのは、彼自身の力ではありません。モーセは絶えず神様を仰ぎ、導きを求めました。その神様ご自身がモーセを通して、民を導かれたのです。

モーセは完全ではありませんでした。いくつかの失敗のゆえに、彼自身は約束の地には入ることができず、その一歩手前まで到達した時に、ピスガ山から約束の地を眺め、そして天に召されました。
モーセは神の家(=イスラエルの民)を最後まで忠実に治めて地上での生涯を終えました。
モーセは優れた中間管理職とも言えるでしょう。

上(神様)の御心をよく知って、それを砕いて民に伝え、また民の思いをくみ取って神様の御心に従いつつ事を成す。難しい立場ではありますが、非常にやりがいのある仕事です。
へブル書は、このモーセ以上に優れたお方が神なるイエス様である、と語っています。
イエスさまは「神の家=神を信じる者たち=私たち」を最後まで見放さずに、忠実に導いてくださるのです。

モーセとイエスさまの違う点は、モーセには欠点があり、人々の成長を助けつつ、自分自身も試練を通して成長し、立ち上がっていかなければならなかった、という事です。
一方、イエスさまは100%完全な神であり、同時に100%完全な人間であります。
罪は何一つ犯されませんでしたが、私たちの喜びや苦しみ、心のうちにある全てをご存じのお方です。その上で、モーセ以上に忠実に、また、完全に私たちの人生を最後まで導いてくださるのです。

イエスさまは、へブル書で「忠実な大祭司」と語られています。
大祭司とは、天におられる神様の御心を知り、民に伝え、また、民の思いをくみ取って神様に執成す役目を持った職です。これも中間管理職、と言えるでしょう。

モーセ以上に、忠実に、完璧に私たちを治めてくださるのが御子、イエスさまです。
イエスさまは、私たちに対する父なる神様の思いを完全にご存じであり、また、私たちの全ての心のうちと状態を完全にご存じで、その上で、信じる者を導いてくださるのです。これは本当に感謝なことです。
人には制限がありますが、神様は無限です。
このイエスさまは、私たちを罪と滅びから救うために、自ら十字架にかかり、よみがえってくださいました。人への大きな愛の現れです。ですから、私たちは平安をいただいて、安心して人生を歩んでいくことができます。

神様の忠実さは完全であり、決して私たちを裏切ることはありません。
真の創造主なる神様は全ての人をご自分の元へと招いておられます。この世の変わりやすい物に頼るのではなく、決して変わらない、この神様を信頼し、歩んでいきましょう。




礼拝メッセージ(2014.10.12)

ガラテヤ書1章1~24節
 

今日からガラテヤ書を学びます。

この書の中心聖書箇所は1章10節「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神にでしょう。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」です。
Key wordは「人によらず、神による」です。

つまり、人間的な力を頼りとしない、ということです。

当時のガラテヤ教会は律法主義者達の教えによって混乱させられていました。
それを正すためにパウロが書いたのがこの手紙です。
エルサレム教会は当時の中心的な大きな教会です。
そこからやってきたある人達は、ユダヤ人を厚遇し、異邦人を冷遇したり、ユダヤ教の儀式を強要したりしていました。

この律法主義というのは、心を伴わなくても、表面的には正しいことをしているかのように歩むことです。
これは、日本でいうなら、例えば江戸時代の士農工商の制度などが一例です。
農民は表面的には、上から二番目の立場を与えられていました。
では身分に沿った暮らしをしていたかというと、逆です。
幕府によって搾取され苦しんでいました。
けれども、幕府は えた、非人という最下層にある人々を位置づけ、彼らよりはましな暮らしだ、と納得させたのです。

また、この律法主義は行いが中心ですから、能力主義や成果主義につながります。
たくさんお金を稼いだり、立派な行いができる人が高く評価されます。
けれども、これは神様の愛からほど遠いものです。

律法主義者たちには愛が欠如していました。
貧しい人々や苦しんでいる人々に愛やあわれみを感じることが神様の愛です。
神様は罪を憎む聖いお方ですが、一方罪ゆえ滅んでいく人々に対してあわれみの心で一杯です。

その正反対にある律法主義は「人間中心主義」とも言えます。
聖書の神様の視点で物が見られないことです。
人間的なものを中心としていくと、争いや問題へと発展します。

こういった律法的な考え方を、ある人々は「福音」(聖書の最も伝えたいこと:イエス・キリストを個人的な救い主と信じるだけで罪ゆるされ、天国に行ける者となるという良い知らせ)に混ぜ込みました。

つまり、行いが無ければ救われない、天国に入れない、という考え方です。

こういったユダヤ人たちは異邦人に偏見を持っていました。
ユダヤ人は選民ですが、異邦人は神から遠く離れた、無知な地位の低い人々と見なしたのです。
ガラテヤ書でパウロは、それは神様の御心から全く離れた誤った考えであると語りました。
異邦人であっても、救いはイエス・キリストを信じることによってのみ、与えられるのです。
つまり、神様から直接来るのです。
そのパウロもかつては、律法主義の化身ともいえる人物でしたが、神様の力によりすっかり変えられました。

「Only by God, 神によってのみ」これがガラテヤ書のメッセージです。
私達は神によって救われ、生き、励まされて歩むのです。



 

礼拝メッセージ(2014.6.8)

「カイザルのものはカイザルへ」
ルカ20章20~26節
  
”税金をカイザル(ローマ皇帝)に収めるべきか否か”

ある時、律法学者や祭司長達がイエス様に近寄って問いかけました。
律法学者達はユダヤ社会の上層階級に属し、民衆がイエス様の教えを支持するようになっていることに非常な危機感を抱き、嫉妬から殺意を抱くまでになっていました。
あくまでも自分達が民衆の尊敬を受け、指導者でありたかったのです。
しかし彼らは、なめらかな尊敬の言葉をもってイエス様に近づきました。
自分達もイエス様を支持し、民衆の味方である、と見せかけのメッセージを発するためです。

彼らは信仰があるように装い、人々を騙しました。
今日でも同じような人達が溢れています。
多くの新興宗教がその例ではないでしょうか。

さて、ローマの属国に住むユダヤ人が治めた税金は、ローマの為に使われ、自国に益が還元されることはありません。
ユダヤ人たちはローマの圧政に苦しんでいました。
もちろん税金も払いたくなかったことでしょう。
そして自国を解放してくれるメシヤを待ち望んでいたのです。
それがイエス様ではないか、という期待が民衆の間に生まれていました。
このような状況で律法学者達が投げかけた質問は、非常に巧妙な罠でした。
なぜなら、もし「税金を納めるべき」と答えれば、民衆の心はイエス様から離れていくことでしょう。
けれども、もし「税金を納めるべきではない」と答えるなら、直ちにローマの法廷に引いて行かれ、ローマによって裁かれるのです。
どちらの答えも危機的結果が待っています。
ですから、知恵深い解決が必要でした。

イエス様は「デナリ銀貨を見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と言われました。
銀貨には、自らを神と称するアウグストの肖像と名前が刻んであります。
律法学者達は「カイザルのです」と答えました。
「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。
“カイザルの名義のものだから彼に返しなさい”これは理にかなったことです。
そして“神のものは神に返しなさい”と付け加えました。

ユダヤ人達は、神殿で色々な捧げ物をしていました。
けれども物以上のもの、つまり私達自身全てを神様にお捧げしなさい、とイエスさまは言われたのではないでしょうか。
なぜなら私達が地上で与えられているものは、自分自身を始め、全て神様から与えられ預かっているに過ぎないからです。
命、健康、能力、家族、友人、財産等、神様は私達にさまざまな物をくださいます。
けれども私達が地上を去る時、そのどれ一つをも持っていくことはできせん。
私達が地上を生きるというのは、その預かったものを神様にお返ししていくことです。
それはお金よりも尊いものです。

さて、律法学者達もそれを見守っていた民衆たちも、イエス様の答えに驚嘆してしまいました。
「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。コロサイ2:3」と聖書は語っています。
イエス様ご自身が神様の知恵であり、全ての解決をくださるお方です。
残念ながら、これ以降、律法学者達はますますイエス様を憎むようになります。
自分達のプライドで凝り固まっていたからです。
けれども「主を恐れることは知恵の始め」箴言9章10節、と書いてあります。
創造主なるイエス様を個人的に心に受け入れ、信じることが知恵の一歩であると聖書は語っています。



 

「聖書からのメッセージ」(2014.5.4)

「ザアカイ」
ルカ19章1-10節

「人の子(キリスト)は失われた人を探して救うために来たのです。」
ルカ19:10


今日の主人公のザアカイは、日曜学校に来たことがある人ならだれでも聞いたことがある程有名な人物です。
ザアカイは税金を集める取税人で、しかもそのリーダーでした。

当時ユダヤはローマに支配され、人々は重税に苦しんでいました。
取税人たちは、ローマの手先となり、税金に上乗せしてお金を取り立て、自分達の懐に入れていました。
ですからザアカイは大金持ちでしたが、ユダヤ人からは裏切り者と見なされ、軽蔑されていました。

さて、ある日ザアカイは、イエス様が自分の町へやって来ると聞きました。
彼はどうしてもイエス様にお会いしたいと思っていました。
けれども、彼は非常に背が低かった。
イエスさまの周りは群衆が取り囲み、だれも嫌われ者のザアカイに道を譲ってはくれません。
そこで彼はいちじく桑の木にするすると登りました。
すると丁度、木の真下にイエスさまが来られ「ザアカイ、おりてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。

イエスさまは、ザアカイの心の中を全てご存じでした。
大金持ちであっても、人々から憎まれ、空しい気持ちでいたこと。
同胞を裏切って生活している、という罪悪感。
そして、罪の裁きへの恐れ。
ユダヤ人にとって、真の神を知らない異邦人であるローマのために仕えるということは、神への裏切りでありました。
当然いつかは神から裁きを受け、その結果は地獄である、と薄々感じていたのです。
そしてそんなザアカイにも、イエスさまがメシヤだと教えてくれる人がいたのでしょう。

ザアカイは、イエスさまが自分を変えてくださると希望を持ちました。
今の自分を自分では変えようもありません。
ザアカイのように、多くの人は死への恐怖を持っているのではないでしょうか。
聖書は、死後に全ての人が造り主なる神の前に出て裁きを受ける、と書いています。
文字通り、ミケランジェロが描いた傑作「最後の審判」の通りです。
その裁きを本能的に知っているので「死=恐怖」だと、聖書は説明しています。
けれどもザアカイに近寄ってくださったイエスさまは、ザアカイと親しく食事を共にし、受け入れてくださいました。
ザアカイがこれまでの生活を悔い改めて、罪と空しい生活から解放されたい、と心から願っていることを知っていたのです。
人々から平気でゆすり、だましとって贅沢な生活をしてきたものの、何の良い物も得られませんでした。
いいえ、かえって多くの物を失い、最後には永遠の裁きを受ける運命だったのです。

ザアカイは自分の罪を赦し、救ってくださるイエスさまを心に信じました。
そして、本当に「神の子ども」となったのです。
彼の心は喜びと平安で一杯になりました。
全ての罪は赦されて、信仰により、天国にふさわしい者、と恵みにより変えられたのです。
しかも、無償で!
神様は本当に気前の良いお方なので、価なしに、信仰によってのみ永遠の命をくださいます。
その価はイエスさまが十字架で血を流して払ってくださった大きな犠牲によります。

ザアカイが本当に回心した結果は、彼が「だまし取った物を4倍にして返します。」と目を輝かせて言ったことです。
実行した結果、彼は多分無一文に転落したでしょう。
取税人の仕事も辞めたことでしょう。
けれども、彼が得た満足と平安、喜びは失った金銭より遥かに価値あるものでした。
それ以降は同じ信仰の多くの友に囲まれて生活したことでしょう。

今日の聖書箇所にある通り、ザアカイは神のもとから「失われた者」でしたが、イエスさまが探し出して「救われた者」と変えられました。
私達がどんな生活をしていようとも、人々からどう思われようとも、また外見がどのようであっても、神様は求める心を持った人をご存じです。
そして、ご自分から慈しみをもってその様な人々に近寄ってくださいます。
私達をありのままで受け入れてくださるこのイエスさまを求め、信頼して歩みたいものです。



 

「自分を低くする者~結婚披露宴の例え」(2014.1.26)

聖書箇所:ルカ14章7節~11節  
  
今日のメッセージは、私達日本人には比較的わかりやすい箇所です。

というのも、ユダヤ人は東洋人であり、どちらかというと欧米人よりも日本人に考え方が近いからです。

要約すれば、「私達が婚礼の席に招かれた時に、自ら一番良い席に座ってはいけない。理由は後からもっと偉い人が来てその席を譲ってください、と言われることほど恥ずかしいことはないから」です。

この例えは11節「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」という真理を教えるために、イエス様が語られました。

かつて、恥の文化と言われていた日本。

現在はその恥の感覚が大分損なわれてきたようにも思われますが、自分は人目にどう映るのか、また、人から見て恥ずかしくないように振る舞わなければ、という考えはだれにでもあるでしょう。

けれども、結婚式に招かれた時に、自ら良い席に座ろうとするタイプの人もいます。

これは、いわゆる自分に自信がある人。

自分の能力や社会的地位、または何らかの事柄において成功しているので、自分は素晴らしいし、高レベルな人間、と過信し、自分は大丈夫と思い込んでいる人のことです。

実は神様は、そういう人こそよくよく気をつけなさい、とおっしゃっています。

なぜなら、そういった考えの人は神様の救いから一番遠いからです。

偉大な伝道者パウロは、クリスチャンになる前はそういった人物の一人でした。

ユダヤ社会のエリートであり、人目から見た彼の生活は完璧でした。

仕事も、日常生活も、宗教生活も、全てにおいて非の打ちどころのない人と言われ、それを自負していました。

非常に高レベルの、いわゆる「出来る人」だったのです。

その彼がイエスキリストを知った時に、人生が180度変わりました。

自分の完璧さは表面上のことであり、ただ、人目から見たレベルに過ぎないと気が付いたのです。

完全な全能者である神様の前に自分を置いた時に、自分の心の奥底が探られました。

そして、心の醜さと罪にはっきりと気が付いたのです。

人からどんなに良く思われようと、神様の前にはただの罪人、弱い者でありました。

人を見下し、切り捨てもし、プライドの中で生活してきました。

けれども、そのままでは、神様に良しと認められることは決してないこと、自分の罪の罰を受けるべき人間であること、けれども、自分の醜い罪を赦すためにキリストが十字架という極刑にまでかかり、命を捨ててくださり、また復活したことを心底受け入れました。

その時、自分がそれまでに誇って来た、人も羨む人生はクズだった!と言い切ったのです。

このように、自分を低くする者を神様は高く上げてくださいます。

これは、今の世の中と逆行しているように思われるでしょう。

現在は「自分がどれだけ出来るのか」を主張し、見せつけなければ勝者になれない、という風潮があるように思われます。

けれども私達は自分で自分を勝者にしようと頑張る必要はありません。

ただ、神様の前に自分をさらけ出し、弱いままで、そのままの自分で受け入れていただくことができます。

自分が高くされるのは、自分の努力ではなく、神様なのです。

その為には、まず、福音を信じ、神様から罪の赦しと永遠の命という救いをいただくことです。

そうすれば、心に大きな平安と喜びが与えられます。

困難を乗り越える力も自然と与えられます。

神様は惜しみなく与え、私達に何も要求されない、大変気前の良い、愛に満ちたお方であるからです。

最後にもう一度11節を繰り返します。

「(神様の前に)自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」




「12弟子を選ぶ」 (2013.4.7)
 

昨今、大学生の就活について多くの記事が書かれ、数多くの就活本が出版されています。

どうしたら自分の適性に合った会社を見つけ、採用してもらうことが出来るのか。

どのような基準で会社は人を採用するのか…等々。

実はイエス・キリストも多くの弟子達の中から、12人だけを選びました。

高倍率であったに違いありません。

この12人がなぜ必要だったのでしょうか。

それは、3年間寝食を共にしながら訓練を受け、キリストの生涯の証人となり、また、やがて福音(=良い知らせ=キリストが成した業)を世界中に伝えるためでした。

今風に言うなら、採用基準、というものは聖書にははっきり書かれていません。

ただ、背景と人柄の極めて異なる人々が集められたということがわかります。

選ぶ時に、キリストは一晩中祈りました。

そして選ばれたのが、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという漁師たち。

正規の教育のない人たちです。

また、ローマの為に税金を集める仕事をしていた、マタイ。

熱心党のシモン。

また、やがて銀貨30枚でキリストを裏切るイスカリオ・ユダ。

ある者は非常に短気で、「雷の子」というニックネームをつけられたほどです。

トマスは非常に疑い深い人でした。

また、それぞれにキリストに従う目的も違っていました。

シモンは強い政治目標を抱いており、ローマ帝国を倒してイスラエルの自治を確立することが夢でした。

一方取税人マタイは、ローマ側について同胞を裏切った過去を持ち、両極端です。

成人君主とはほど遠く、互いを出し抜こうとする場面もあります。

イスカリオテ・ユダは計算高く、また会計を任されるほど皆の信頼を得ていましたが、実は裏切ることをキリストはご存じでした。

それを知っていて、わざわざ自分の仲間とすることは、非常な苦しみです。

けれども、ユダの悔い改めを待ちつつも、叶わず、「人類の罪を背負って十字架にかかる」という神様のご計画の中で、ユダは用いられました。

大きく異なる12人でしたが、唯一、共通点がありました。

「キリストを信じ従う」という信仰です。

この信仰のみが12人を結びつけました。

後にユダが脱落し、パウロが使徒として選ばれますが、12人は宣教のために後に多くの困難に遭います。

各々が命を懸けてキリストの十字架とよみがえり、永遠の命の福音を伝えます。

そしてこの福音が今も世界に伝えられているのです。

弟子達の後の成長と生涯を見るときに、神様はまず「信仰=神を信じて仰ぐ心」を喜ばれることがわかります。

神様は私達の能力ではなく、心を見て正しく評価し、報いてくださるお方です。

そして、私達がどのような者であっても、「信仰」という一点をご覧になり、最後まで責任をもってその人生を導いてくださるのです。

思い切ってキリストに信頼し、人生を賭けた弟子達でしたが、まさか自分達の名前と働きが歴史に残るとは夢にも思わなかったことでしょう。




「救いのヘルメット」 (2012.9.10)
 

先日、夏の教会キャンプに出席して、講師の牧師先生の聖書からメッセージを聞きました。

その時、エペソ人への手紙6章10節から17節のから「神の武具」について学びました。

その中で、「救いのかぶと」はすべての基本、つまり、罪からの「救い」と神の平安がなければ何事もはじまらないということが語られました。

その個所を、英語訳の聖書でみると「救いのヘルメット」となっていました。

私は、平日週5日、バイクに乗って、郵便配達の仕事をしています。

間違いなく郵便を配達することは、勿論、大切ですが、交通事故なくバイクを運転して仕事することも大切なことです。

そこで、上司から何度も確認されるのがヘルメットをちゃんとかぶっているかどうかということです。

これは、交通ルールという点で重要なのはあたりまえですが、自分の身を守るということも含まれた大切な事柄です。

数年前、私は、ある配達先を出て右折した途端に横に倒れてしまいました。

それと同時に、頭を2度、アスファルトの路面に叩き付けられました。

その音がとても大きかったので、その周りの家の皆さんが飛び出してきたほどです。

幸いにも、ヘルメットへの衝撃は大きかったのですが、ちょうどボールが跳ね返るように、ヘルメットがその衝撃を頭に感じさせなかったのです。

私は、本当にヘルメットってすごいなあと実感しました。

その時から、交通ルールや指摘されるからではなく、私は、ちゃんとヘルメットをかぶることを忘れません。

九死に一生を得たのですから。

町ではしばしば、ヘルメットをかぶらなかったり、後ろにずらしてかぶったりしてバイクを運転している人を見かけます。

私は大変心配しています。

たぶん、彼らは「自分は絶対、転倒して頭をぶつけるようなヘマはしないし、警察に捕まらなければいいんだ」と思っているから、そうできるのでしょう。

でも、交通事故やうっかり転倒はいつでも起こり得るし、その時本当に大切な守り、ヘルメットがなければ、命を失うことになるのです。

大丈夫と思っているその時に、その悲劇はおこるのです。

救いのかぶと、ヘルメットは基本であると、同じく聖書は教えます。

キリストの救いは罪の赦しによる永遠の裁きからの解放のみならず、永遠の命を持って、神の平安を得ることを約束しています。

このお話を聞いてから、私はバイクで郵便を配達しながら、ヘルメットで守られていることと、神の救いと平安をかぶっていること(信じていること)を日々、ますます感謝しています。

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